10年前のあの時。

私は299バイパスを所沢から日高に向かって走っていた。

入間から飯能に入ったところで、一瞬、自分が何かの発作を起こしたのかと思った。

違う。揺れている!

前を走っていたトラックが路肩に寄せて止まった。

私も続いて止まる。横揺れがすごい。

見上げると電線が縄跳びの縄のようにたわんでいた。

揺れが落ちつき、前のトラックが走りだしたので私も。

闘病中の父がいる実家に急ぐ。

母の慌てぶりがすごかったと布団の中で父が笑っていた。

しかし、小康を保っていた父はその後急激に弱っていった。

テレビで毎日流れる地震と津波と原発事故の映像が、父を弱めていったように思えてならない。

今夜のテレビでも何度かそれらの映像が流れたが、

私にはテレビ画面の前に父の白髪の後頭部が見えるのだ。

父の生まれは東京だが、両親は福島の出身だった。

「もう消そう」そう促してもニュースをじっと見ていた父。何を感じていたのか。


4月は私の2期目の選挙があった。余震の中、1日だけの選挙戦。

無投票だったが、当選を喜んでくれた父は5月に亡くなった。

2011年の春は私にとっても怒涛の3か月だった。


その後、何かしたい、せずにはいられないという人たちと

「東北応援隊」をつくって活動を始めた。

武蔵台くるくる市場


東北の物産を仕入れて販売。市内の放射線量測定。放射能や自然の学習会。

夏には石巻にボランティアに行き、被災地の現状を目の当たりにした。

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自然エネルギーを推進するよう市に請願を出したりもした。

その仲間たちは今でも細く長く活動している。

私はほぼ幽霊会員だが、三陸わかめや日高産のものをちまちまと売っては東北に寄附を送る。

持続可能な生活を目指そうと、畑で大豆、えごま、そば、果樹を育てるメンバーも。

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間伐隊のメンバーは毎月精力的に山に入って山を手入れしている。

そうやってあの震災がつなげた仲間が10年間、ゆるくつながってきた。

今年はコロナでイベントはできなかったが、記念の冊子を作ろうということになった。

唐辛子農家さん、花卉農家さん、米農家さん、酪農家さん・・・

あのころつながった被災地の方たちの声も載せるそうなので、出来るのが楽しみ。


オリンピックより被災地に本当の復興を! なんて、軽々しく言えるわけもないけど、

10年たっても癒えない方々への祈りを捧げます。